日野啓三の都市論1988 (読書ノート)

僕の好きな芥川賞作家 日野啓三(1929-2002)の都市論。バブル経済最盛期、いまから30年も前の昭和最終年、1988年に書かれたエッセイ。思い返せばまさにこの年、18歳の自分は生まれ故郷の群馬から東京お茶の水にあるS代予備校に通うため単身、上京しました。 日野啓三の見たTokyo。これを読むと19-20歳の緊張感と焦燥に満ちた自分がすぐ隣に立ち上がるかのよう…。いまも時おり彼のエッセイを読み返しながら、当時のTokyoに想いを馳せます。 東京を都会ではなく「都市」と捉える視点が新鮮です。そして次のバブル到来が見え隠れする今こそ、落ち着いて読み返したいものです。 日野啓三 「都市という新しい自然」 読売新聞社 1988年 === 私はこれまでの生活のほとんどを都市で過ごしてきた。そして都市が好きだ。 戦後慌ただしく建てられた形だけの無神経なビルや色彩感覚など全くない看板の列はおぞましいが、この数年来の新しい高層建築の工夫をこらされたデザインや材質は眺めるだけで快い。高架高速道路が商店の並ぶ通りの頭上を走っているのは重苦しいが、場所によっては二重三重に交差するカーブの曲線がダイナミックな感動を与える。 自然という言葉からもはや私は山河田園だけを思い浮かべることはできない。自然に実感するのは、すでに鉄とコンクリートとビニールとガラスと蛍光灯を深く組み込んでしまった世界である。 星、風、砂、様々な生き物、そして様々な人工物。どれが主役でも背景でもなく、ひとしく並び噛み合って、刻々と変容し、壊れては生まれ、そして一瞬静まりかえる色と匂いと音と感触と陰影と気配の不思議な総体。それが私にとって自然だ。 いわゆる深山幽谷的、花鳥風月的、田園牧歌的自然を純粋な自然と呼ぶとすれば、私の自然はもはや純粋ではない。いわば合成自然とでも名付けるべきものだろう。そんな自然像はキメラ(合成怪物)的だといわれるかもしれない。 だが純粋に熱エネルギーだけだった宇宙で、最初の原子はキメラではなかったろうか。純粋に物質だけの世界に生まれた最初の生命は怪物ではなかったろうか。単純な生物から見れば人間の意識は狂気かもしれね。 そもそも自然は怪物的なのではないか。容易に人間が勝手に感情移入できるような自然の形だけを自然と呼び、そういう自然だけをひたすら懐しむことは好きではない。純粋に永遠な自然の形などありはしないのだ。ノスタルジアの中にしか。 むしろ今必要なのは、現に自分たちが見て触ってそこで生きている世界こそが自分たちのかけがえのない堅実な自然だという実感、信頼、愛情を取り戻すことではないか。 土は本物だがアスファルトは偽物だとは言えない。山は本物だが高層ビルは偽物とは言えない。土と同じようにアスファルトを、山と同じように高層ビルを親しく美しいと感じることができる新しく柔軟な感性が必要だ。 もはや自然という言葉を我々の外部にある世界とだけ考えるわけには行かなくなるだろう。人間を含む自然に、さらに人間の意識と直に連動する自然へ。我々自身の意識のあり方と自然の姿とがともに大きく変容する時が迫りつつある予感がする。 最近、私は都会と都市は違うとはっきり考えるようになった。都会とはなんとなく人間が群がってきて、用もないのに道を歩きまわり、建物も木造とかレンガ館の生活の匂いの染み込んでいるようなところ。それに対して都市は外の空人の姿が消え高層ビルが林立しそこを見えない情報が飛び交い、渦を巻く。 東京で言えば、10年ほど前から都会から都市への変貌、というより一種の進化が急速に進み始めたと思っている(生物だけでなく都市も進化するのである)。 そして都市東京は妙にあの戦後焼け跡の東京に似ているのだ。焼け跡も盛り場には闇市場が立ち並んで人間臭い子気が立ち込めていたけれど、そこを外れると静かだった。人間がおしつける欲望や意味のしみを脱ぎ捨てた「物」の深い沈黙があった。そして剥き出しの無機的な物たちの沈黙は宇宙の永遠に、人間的な意味を超えた物たちのひそやかな気配は星々の遠い瞬きに通じていた。 かつて焼け跡に座り込んで夜空を眺めていた時と同じように、一番町の高層ビル高層マンションの下の岩の谷間のような道から小さな夕空を見上げながら、わけもなく涙のようなものが滲みかけたことがある。悲しいとか寂しいといった感情とは全く別の、何か快く透き通るような感覚である。在ることと無いことの狭い境界線に立ってるような感覚。夢と現実とのあわいの不思議な感じといってもいい。 都市を非人間的だという人がいる。自然に帰れと叫ぶ人もいる。だが田園牧歌的自然は私にはどうも生々しすぎる、というか閉じ込められた馴れ合いの息苦しさを覚えてしまう。宇宙にまで開かれた気分を覚えるのは私にとってむしろ都市の中心部だ。岩だらけの山頂、砂漠の中に、それは通じている。 そこでは人間の超感覚が研ぎ澄まされ、永遠について、無について、夢についてとても開かれた思考ができる。生命というものを物質からの長い複雑化のプロセスとして、物質そのものが無の不思議な分泌物として考えられる。とても小さな偶然の存在としての自分だが、長い長い物質進化の最前線の意識的存在としての自分。そんな思いが自然に涙を誘うのである。しみじみと渇いた気分を。 焼け跡など全く知らない若い人たちの小説や芝居や映画やコミックや歌に、廃墟のイメージが増えていることを私は面白く思っている。廃墟は何かが壊れた残骸だけではなく、世界の本来のイメージが開かれる場所でもあるのだ。その意味で都市は常に廃棄をはらんでいる。廃墟のイメージを育てる場所ともいえる。 都市から廃墟のイメージを通して、いま人類は宇宙の感覚を自分たちの意識に取り込み始めているように私には思えるのである。 日野啓三 都市という新しい自然 読売新聞社 1988年

ノート ~ 建築デザインコンペの極意

建築デザイン・コンペに勝つ2つのタイプ タイプA ~勝利に徹するタイプ ・他者満足 ・勝つために捧げる ・姑息タイプ ・魂を売る タイプB ~自分の趣味を徹底追及するタイプ ・自己満足 ・欲望持たずに無心で闘う ・ヒット率低いが、グランプリへ ・やりたいことをやる そもそも、建築デザイナーとして自分がやりたいことは何か? コンペの「テーマ」から見えるもの…。 ・人の心を守る建築利他的な建築 ・しなやかで強い建築 ・人を分けず煙を分ける ・ハウツーリブ ・アニバーサリー  ミッドタウン10周年 相手について知ること…相手のことを想像する。コンペでは相手に聞けない コンペはサッカーでいうとPK、特殊なスキル 実は、テーマに沿い過ぎてはダメ...。 「売れるデザイン」 と「コンペのデザイン」は違う。 ・異種格闘技戦 ・審査員の本と作品、過去の傾向、オフィス家具 ・◯◯さん、狙いで応募されたい ・欲望のマネジメント コンペでは、いかにイノセントのフリをするか、自分の欲望を隠すか。 ゲーム感覚で楽しむ、このコンペは何が狙いか? 以上、6月のJ-wave特集番組より (June 26, 2016)

断章: 都市に住むこと、都会の街に暮らすということ

NYで9.11事故があった2001年の夏以来、ここ阿佐ヶ谷(東京、杉並)で暮らし始めてから13年が経とうとしている。この13年間という時間は決して短いわけではないが、過ぎてみると必ずしも十分に長い時間とはいえないようだ。街には、まだまだ僕の知らない姿がある。 例えば、青梅街道や早稲田通りなどの大通りから少し中の路地に入るだけで簡単に方向感覚を失ったり、つい見慣れた有名な集合団地が荒地となっていたりと、そこに住む人(あるいは仕事や学校のため通う人)があたかも風や水の流れのように常に更新されつづけるそのペースに合わせて、当の街も「新陳代謝」(メタボリズム)をたえず行っている…。 ところで、僕自身が新しく住み始めることになった「街」に対しなかなか打ち解けない人間なのだと最近あらためて気づいた。初対面の「人」には比較的容易に心を許すことができると思っているが、これが「街」(しかも都会の街)となると簡単にはいかなかった。生まれ故郷の高崎は除いても、船橋&戸田&小平(計5年)、倉敷(6年)、クリーブランド(2年)とこれまで住んだ街との「関係」を振り返ると、どうも最初の数年間はよそよそしさが常につきまとい、何故かある種の「警戒感」をもって街に接してきた感じがする。 一方、相手である街の方でも僕のような人見知りをする「ストレンジャー」を見つけて他人行儀に振る舞う。無論、その街の醍醐味や「舞台裏」など見せてもくれない。ある時間が過ぎ、漸くこちらの心のわだかまりがなくなって始めて都会の街は心地よく感じられてくるものだ。 じっさい、勉強や仕事を、あるいは趣味やスポーツでもそうかもしれないがまとまった知識や技術の習得が求められる「1つの何か」を長く続けているとある期間が経過した後にこれまで意識/努力して身に着けようとしていた段階を卒業し、次の段階に知らぬ間に入っていることがある。どうやら住む街との関係も同じようなことがあてはまるようだ。 東京のような都会に住むメリットは、そのハード・ソフト面のリソースやインフラを享受できること、多様な人脈/交際ができること、そして自分ひとりの時間「孤独」が得られること。総じて、大きな「自由」が手に入ることにある。もっとも、そのような巨大な自由は(一方で)不安やリスクと背中合わせのものであるが。 いずれにせよ、都会に生きる(都市で暮らす)ということには常にある種の「緊張感」が付きまとうことは否めない。それはオフィスで働くのとは別の種類のストレスでもあるが、公共の他人の視線があって人は初めて自己を律することができるのも事実であろう。 おそらく僕にとっての週末のサイクリングやローイングは、趣味としての喜びであると同時に、こうした都会生活に付きまとう不可避のプレッシャーからの一時的な(かつ贅沢な)逃避なのかもしれない…。(2014.4.20) YouTube: "Tokyo Town Pages" (by HASYMO, 2008) https://www.youtube.com/watch?v=FiNwj0xxjak

読書ノート 「近代デザインの美学」

愛媛大学文学部の准教授 高安啓介氏による本書は、「美学」「デザイン思想」にかんする良質な専門書である。(もちろん入門書ではないが、この分野に興味関心のある人ならば巻末の充実した注を頼りにそのまま最後まで読み進めることができるだろう。)まず、そのシンプルな真っ白の虚飾のない装丁が私たちの目をかえって惹きつける。内容も簡素だが濃いものだろうとの期待をもたせてくれる。実際に読み進めると、以下のような記述をみつける。 「学問としての美学は、これまで芸術の哲学として発展をとげてきたが、その仕事は、じつのところ、芸術にまつわる用語について検討することだったのではないか。たとえば美についての議論は、じつのところ、美という語をどのように理解するのかについての議論だったのではないか。」 「本書のかかげる美学は、用語への関心からカタカナ外来語にも一考をうながしたい。(中略)本書は多少の違和感があるのを承知で、漢字をなるべく使用する。コミュニケーションについては「交通」の語をあえて提案したい。… 一番の狙いは、漢字のもつ意味の喚起力にかけてみることである。馴染みのカタカナ外来語にかわって漢字をあてはめたときには、一種の「異化効果」がもたらされ、用語への理解がうながされるだろう。」 このように著者の「用語」に対する姿勢は、どこまでも謙虚であると同時に、ある意味、ラディカルである。「近代」「造形」「構成」「形態」「表現」「建築」「文字」「美学」。これら一見あたりまえのように私たちが日常的に「わかっている」つもりで使っているいくつかの基本用語に向き合い、あたかもナイフでゆっくりと切れ目を入れ小さな生き物を実験台の上で解剖していくかのように「解体」されていくところが、本書の最大の味わいといえる。 たとえば「構成」の項目では、次のようなことが語られる 「構成とは素材をまとめあげる行為であるかぎり、素材にたいして何かを「強いる行為」であるに違いない。誇張していうと、構成という行為には「支配」がはらまれており、それゆえに「暴力」がはらまれている。ただしそうみるときに、私たちは、内からの構成という理想をかかげることができる。」(P56) あるいは「空間」の項目 「近代デザインでは、空間にたいする「人間のかかわり」が重視される。建築のもたらす空間はそもそも人間存在なしには意味をなさない。したがって、問題となるのも「人間の実感」にもとづく個々の具体空間である。(それは)体験されている空間であるかぎり、体験をとおした様々な質によって分類されるはずである。」(P119) 最後の例として「表現」の項目 「芸術において表現されるのは一体何かと問うならば、それはまず語の意味からして「内なるもの」のはずである。ただしそのとき表現されるのは、作家の意図とは限らない。表現されるのはむしろ作家の意図していない無意識にかかわる部分である。したがって、表現者にとっての表現とは「自己発見の道程」にほかならない」(P139) ところで、近代デザインの代表的な象徴は何かと僕なりに考えると、やはり都市建築の代表である商業ビルディングに思いがいたる。21世紀に入り、東京に限らず世界中でいよいよ高層化する商業ビル。それらの簡素で洗練されたデザインは、建築素人のわたしたち一般人の目から見ても飽きのこないものが多い。最近では、美術館、学校、病院、駅庁舎、はては郊外のスタバ店舗まで、それぞれ個性あふれる外観と内装とで「自己」を主張しはじめているように見える。ただその一方で、デザイナーが誰であれ、それら個性的なはずの最近の建築物のデザインすべてに、相共通する「思想」なり「一貫性」を感じてしまうのは僕だけではなかろう。もし、そのようなものがあるとすればそれはきっと同時代の集合的無意識であり、著者が本書でいう「創造という美名のもとで自然支配を強めてきた近代デザイン」に対する、建造物それ自体の「内からの構成(=反発)」とはいえないだろうか。ある意味、現代の合理主義がもっとも徹底されたビジネスの中心、東京・丸の内。金曜の夜、東京の森、皇居を周囲に取り巻く高層ビル群をながめながら、本書が語ろうとしているものを探そう、その深層に近づこうとしている自分にふと気付いた…。 芸術的な観点から建築デザイン(あるいはその用語)に関心のある方におすすめします。静謐で豊かな読書体験をどうぞ…。  「近代デザインの美学」 高安啓介著、みすず書房、2015年

読書ノート 「建築家、走る」(隈研吾著)

歌舞伎座、JPタワー(KITTE)、サントリー美術館、大宰府のスタバ、高崎駐車場等、…。「負ける建築」「つなぐ建築」を標榜する、現代日本を代表する建築家、隈研吾氏。世界中のコンペに奮闘する彼の言葉には、建築や日本人に対する「熱い思い」がぎっしりと詰まっています。 建築家とは自己表現を糧に生きている人種の代表と思われるかもしれません。…それでも、今回の歌舞伎座Kabuki-zaはとりわけ、「表現」とは何か、「自分」とは何かについて、いつも以上に考え、悩みました。過去の仕事を振り返ると、「表現」にこだわったものは、建築として逆に弱いものになったように思います。何かを表現したいということより、「自分の嫌いな建築は作りたくない」という一念にこだわって、建築を磨いて、磨いて、磨き続けると、強い建築ができるようなのです。 今回の本は、日々ざっくばらんに語ったことを第三者に話を聞き出してもらうことで自分でも思わぬ自分の姿が現れました。どんな姿かというと「カッコをつけない自分」です。…よく考えてみると、ぼくの本領とは、いろいろな事象の複雑さだけでなく、関係者一人ひとりの暮らしや立場に気がつくことにこそ、あるのかもしれません。気づきすぎてしまうがゆえに、ああだこうだと悩むのが、ぼくという建築家なのです。…ぼく(1954年生まれ)は「強い時代」に遅れた世代の建築家です。「弱い日本」に生まれざるを得なかったがゆえの悩み、迷いこそがぼくの本領なのです。 すべてのきっかけは1997年、ビルバオBilbaoというスペインの地方都市にフランク・ゲーリーFrank Owen Gahryというアメリカ人建築家が設計した「ビルバオ・グッゲンハイム美術館」(Guggenheim Museum Bilbao)ができたことにあるとぼくは思っています。それ以前も、建築家とはサラリーマン的な日々のルーティンとはかけ離れた「無茶な日常を送る人種」でしたが、ビルバオ以降、そこに消耗的な動きが加速度を付けて加わりました。もっと正確にいえば、この背後には1985年プラザ合意以降の経済のグローバル化という状況があります。その状況を背景にした、新しい建築デザインのあり方が、ビルバオを通じてわれわれの目に見える形で示されてきたというわけです。…それをぼくら建築家の間では「ビルバオ現象」と呼んでいます。 ビルバオ現象が何かといえば、それは「建築がアイコンとなって都市を救う」という新しい物語のことです。90年代の後半は世界中で20世紀型の工業化社会が崩壊し、それに代わって金融資本主義が世界経済を先導するようになりました。しかし21世紀に入って、金融資本主義のマイナス面ばかりが目立つようになります。その中で、ビルバオだけは建築のパワーによって資本主義の閉塞を突破できるような高揚がもたらされたのです。以降、世界中の都市が「自分たちもビルバオになりたい」と野心を抱くようになりました。それら野心的な都市の関係者が目をつけたのが、建築家の創造性です。…ということで、国際レースに駆り出されて出走するしかない時代に、ぼくらは放り出されたわけです。 その厳しい状況は日本だけではありません。また建築だけにも限りません。製造業にしろ、金融業にしろ、それまであった「国内の安定的な相互依存と相互受注システム」は、グローバリゼーション以降、あらゆる国で失われていきました。その結果、「孤独な競走馬」として国際レースを走り続けるしかない役目が、あらゆる人たちに課せられるようになりました。一人の建築家としては、時間も予算も余裕のある中でゆったりと設計に向き合うことが理想です。でも現実は、レースに引っ張り出されなかったら仕事がない。仕事がなければ事務所も自分もつぶれる。つぶれないために、休みもなしに走り続ける。そういう過酷な馬場に引き出されてしまったのです。 日本ではスカイツリーが話題になり、「やっぱり施工技術でいえば日本が世界一だよ」と自画自賛していますが、それはガラパゴス化の中での世界一。外に出ていかない世界一は一種、伝統工芸みたいなものです。…多額のマネーが渦巻いている市場を、日本の建設会社は逃しているんです。中国だけでなく東南アジアに目を向けても、日本の建設会社の後手ぶりは、韓国と比較にならない。21世紀に日本だけが取り残されている印象は、ぼくの中でますます強くなっています。 建築には世界最前線の動きが反映されます。世界の現場を回っていると、メディアやネットでは伝わらない、町々で違う空気や勢いを感じることができます。たとえば「韓国に勢いがある」といっても、その質はソウルとプサンとではまた違います。今は「場所の固有性」がそれぞれに際立つ時代で、「場所」の意味する範囲が刻一刻と小さくなっている感じなんですね。それを知りたくて、ぼくはどこに行っても、自分の足で町をどんどん歩きます。だから、靴はすぐに底が磨り減ってだめになります。 いま、建築の世界で動きがあるのが「中国・韓国を初めとするアジア諸国」で、それに対してヨーロッパや日本は影が薄くなっています。2010年代の欧州通貨危機も、世界の中心が移動していることの象徴だったかもしれません。明治維新以来、都市でも建築でも、日本人のお手本は長らく「西洋」だったわけですが、ぼくたちが信奉してきた「西洋的なるもの」の危機が、そこにあります。 建築の世界では、20世紀初頭のヨーロッパに出現した「モダニズム」と呼ばれるスタイルが一世を風靡して世界的な流行になりました。モダニズムとは要するに、コンクリート・鉄・ガラスを使った、機能的で透明感のある「工業化社会の制服」のような建築様式のことです。ル・コルビジェ、ミース・ファン・デル・ローエという、誰でも名前を聞いたことのあるヨーロッパの「巨匠」が、モダニズムの生みの親です。 モダニズムが生まれたのはヨーロッパでしたが、爆発的に広まったのはアメリカでした。そのきっかけをつくったのが、「住宅ローン制度」の発明と自動車産業です。ヨーロッパでは各国政府が家賃の安い「公営住宅」をたくさん立てました。…アメリカは、都市の外にある緑を切り開き、その郊外という新しい場所に家をどんどん建てて、大衆が家を所有できるようにしたのです。そのときに一緒に編み出されたのが住宅ローンでした。郊外の持ち家+住宅ローンという政策は、社会の推進力となって、建築産業はもちろんのこと、自動車産業、電気産業、金融業、製造業と、あらゆる業界を活性化させました。このライフスタイルの発明で、アメリカ経済はヨーロッパ経済を抜き去ることになりました。 19世紀までの貴族のための装飾的な建築に代わる、民衆のためのシンプルな建築。それが、コルビュジエがリードした20世紀モダニズムの原点でした。彼は、「コンクリート」という素材を頼りにモダニズムを発明し牽引したのです。…そのコンクリートの打ちっぱなしの手法を極めたのが安藤忠雄さんです。彼の代表作となった「住吉の長屋」(1976)に代表されるように、彼の建築は衝撃的、刺激的で、文句なくカッコよく、大半の学生はその後追いをしました。だからこそ、ぼくはそのカッコよさをどうにかして超えようと思った。だからこそぼくは、そのカッコよさをどうにかして超えようと思った。 なぜ安藤さんが勝者になったかというと、彼がコンクリートの打ちっぱなしだけに満足せずに、「その先にある建築の徹底的な抽象化・洗練化」を成し遂げたからです。勝者になるには権威ある場所でカッコいい理屈だけいっていてはダメで、現実の中で自分の考えを実現させていく「腕力」が必要になります。安藤さんはその過程をエネルギーと禁欲をもって戦い抜いていった人でした。それゆえに一人、頭を抜くことができたのです。安藤さんに限らず、建築史を見ると、そのときの「本流に対する批判性」が、絶えず次の世界を作ってきたことがわかります。…彼は日本の既存の建築教育は受けていません。代わりにボクサー出身の経歴を持っている変り種です。 コルビュジエも安藤さんも含めて、なぜ「コンクリートという素材」が20世紀の中で輝いたのか。それは20世紀がグローバリゼーションの時代だったからです。 Globalizationという言葉が日本で認知されるようになったのは21世紀初頭ですが、実はその前の「20世紀こそグローバリゼーションの原理だけで突っ走ってきた世紀」でした。鉄道、飛行機はいうに及ばず、自動車の普及で世界の交通は20世紀に大きな質的転換を果たします。交通システムの転換と同時に、電話からテレビまで、マス通信、マスメディアの登場による情報伝達の転換も起こり、それによって世界が一つに束ねられたのが20世紀という時代でした。そこでは必然的に共通の言語が求められるようになります。そして建築界の共通言語として、一番手っ取り早い素材がコンクリートでした。 そもそもコンクリートとはどういうものなのか。簡単にいうと、それは砂や砂利、水などをセメントで固めた「人造の石」です。コンクリートが世界に普及したのは、建築技術として、ものすごく単純だったからにほかなりません。ベニヤで即席に作った型にコンクリートを流し込めば、コンクリート建築は世界中、どんなところにでも建てることができます。 コンクリートという建築素材は、人々に堅牢なイメージを与えましたが、実はいろいろな意味で「ヤワ」なところをもっています。いくらでもこまかしができる素材で、実はその中はボロボロの場合もあるんですよ。…コンクリートを建築の主役にした途端に、社会の信用不安も起こりうるのです。 20世紀という世紀は、特殊な世紀でした。それは、前世紀まで世界の原理だった「拘束」に対して「解放」というものが特別な意味をもった世紀で、「解放」や「自由」に人々は大きすぎるほどの期待をかけた。20世紀の建築家たちも、全前世紀まで世界を縛っていた「拘束」をはずせば、「創造」できると発想した。コンクリートがそれを可能にしてくれるという夢をみたのです。 ぼくはコンクリートという素材をすべて否定しているわけではありません。コンクリートが持つ自由自在の特性から何かが生まれるのではなくて、むしろ「制約のある素材」だからこそ何かが生まれると、ひねって考え始めました。 自問への解答を見つけることはいまだ途上ですが、「コンクリートの時間」と「木造の時間」ということをずっと考えています。前者の時間は、コンクリートが固まることによって完結します。コンクリートに不老不死のイメージがあるからこそ、資産として永久化されるような気になります。それに対して木造の時間は、建物が完成してからスタートします。完成した後もメンテナンスを続けていかないと、腐って、土に戻ってしまう。面倒に違いないけれど、メンテナンスを怠らなければコンクリートよりもはるかに長い寿命を得ます。コンクリートの建物は「不老不死を手に入れたような錯覚」を与えるけれど、実は木よりももちません。「手入れする」という要素も含めて、二つの素材の裏に流れる時間概念の違いは大きい。 現在、建築家に求められているのは「建物のカタチ」を作ることではありません。もちろん自己表現などという、ちっぽけなものでもありません。この困難な時代に対する「ソリューション(解決策)そのもの」です。歌舞伎座のプロジェクトでも過去から現在まであらゆることが関与する中でぼくに課せられたのは「少しでもいい解決策」の提示でした。最良の解決策は誰にもわかりませんが、少しよくするだけでも、いまの時代には大変な達成です。少しでもよくすることができれば、何とか建築という形になるのです。そのために、ぼくはいろいろな人の話を聞きまくり、そして、走ります。それが、今の時代の建築家です。 ぼくは今、大学でも教えていますが、建築界の後進たちには「日本にいたらダメだ」といい続けています。とりわけ学生は、グローバリズムの凶暴性や管理社会の厳しさというのもまだ、肌身に染みてわかっていないわけです。日本にいて大学を出れば、自動的に過去のスターのように自由に絵が描ける建築家になれると思ってしまう。何度もいっている通り、そんな時代はもうとっくの昔に過ぎ去りました。 現代の学生に顕著な傾向があります。建築という分野を選んだ者でさえ、「表現」というどろどろとしたものに立ち向かわなくなってきているんです。自分の内面をちょっとだけ出した課題を提出し、先生から少しでも批評を受けようものなら、即座に傷ついて「もういいです」と引いてしまう。でも、建築に限らず、何か一つの分野なり職業なりを極めようと思う場合は、どんな時代にいたって「他者からの批評」を受けることは必然ではありませんか。ましてや、現実のすべてのどろどろが関わってくるのが建築です。 東日本大震災が起きたときは、仕事で台湾にいました。日本に戻ったのは、その二日後です。ぼくが最もショックを受けたのは、高台にある住宅街から被災した市街地を見下ろしたときです。高台では典型的な20世紀型の住宅が何事もなかったかのように並んでいる。道路にはヒビさえ入っていない。でも、そこから下を見ると、都市そのものが赤茶色の破片へと徹底的に完全に粉砕されている。そこには激しいギャップがあり、すべてが不連続でした。 臨死体験を経た後の建築家は、どうしたらいいのでしょうか。まだ何かを建てなければならないのでしょうか―。…それ以前から、古びた感じが好きだ、という感覚は持っていたのです。だからこそ、広重美術館では、変色することを前提で木の屋根を設計していたのですが、…そうか、ぼくは建築に「死」を取り戻したいのかもしれない、と考えるようになりました。 何度も話している通り、ぼくは「アメリカ的なクリーンなもの」からなるべく遠ざかろうとする建築を求めてやってきました。建築に好んで木を使うことはその一例ですが、そんなときも決して完成直後の真新しい状態をめざすのではなく、「時間が経って色が変わっていく状態、朽ち果てる寸前の姿」までをイメージして設計に臨んできました。…死を忘れようとした20世紀アメリカの中でも二人だけ「死の匂い」のする建築家がいます。フランク・ロイド・ライトと、ルイス・カーンです。ライトは「有機的建築」を提唱し、コルビュジエたちのモダニズムを批判した建築家ですが、有機的建築とは生物の身体のようにぐにゃぐにゃしたカーブでできた建築のことだと誤解している人がいますが、大間違いです。生物の本質はぐにゃぐにゃではなく、死にあるのです。 自分のブランドを確立して、それを死ぬまでメンテナンスして回し続けていこうとしたとき、その模範となるのが歌舞伎役者のあり方じゃないでしょうか。だって彼らは、舞台を終えて、へとへとに疲れていたって、楽屋に訪ねてきたお客さんがいれば、深々とお辞儀をして「ありがとうございます」というんですよ。…個人の確立は、これからサラリーマン社会が崩壊した後、日本人全員が取り組んでいかなければならない大きな課題です。 建築の仕事とは、自分の財産をなげうっても足りないということの連続なわけです。たとえば、自分の設計で人に何百億円もの損をさせてしまったら、本当に取り返しがつかない。そういうプロジェクトを繰り返し手掛けていくと「ぼくの表現はこうです」とかこだわっている場合じゃなくなる。代わりに自分を動かすエンジンとして「長い時間に耐えうるソリューションを見つける」という目的に向かって全力をかけるようになります。今、ぼくの中では、自分の名前を残すというより、後世でも愛される建築を作りたいという気持ち、楽しい人たちと一緒に仕事をしたいという気持ちが一番強くなっています。 (引用)「建築家、走る」隈研吾著、新潮文庫、2015年