♪なぜか音楽だけは苦手な三島由紀夫の姿が、次のエッセイから見えてきます:
他の芸術では、私は作品の中へのめりこもうとする。芝居でもそうである。小説、絵画、彫刻、みなそうである。
音楽にかぎって、音は向こうからやってきて私を包み込もうとする。それが不安で、抵抗せずにはいられなくなるのだ。
優れた音楽愛好家には音楽の建築的形態がはっきりと見えるのだろうから、その不安はあるまい。
しかし、私には音がどうしても見えてこないのだ。
可視的なものが、いつも却って私に、音楽的感動を与えるのは奇妙なことである。
明晰な美しい形態が、まるで私を拒否するかのように私の前に現れると、私は安心してそれに溶け込み、それと合一することができる。
しかし、音のような無形態のものが迫ってくると、私は身を退くのだ。昼間の明晰な海は私を喜ばせるが、夜の見えない海のとどろきは私に恐怖を与える。
音楽を聴くの楽しみは、包まれ、抱擁され、刺されること(つまり、SではなくM的な快楽、引用者注)の純粋な楽しみではなかろうか?
命令してくる情感にひたすら受動的であることの歓びではなかろうか。
引用:「小説家の休暇」1972年(新潮文庫) 2012.4.22
You Tube: “Self Portrait” by Ryuichi Sakamoto (1983)